特集・武庫郡三条村を歩く
去る1999年11月27日フェニックスステーション三条主催で行われたミニウォークラリー、芦屋市立美術博物館和田学芸員の案内による「みすごしていたこんな場所」の参加記より・・・(写真が多いので、一度で出ない場合はブラウザの更新をクリックして下さい)
◆ 月若公園から・・・
朝9時30分、集合場所の月若公園をスタート。この公園は往時の芦屋川堤防を唯一残す場所となっています。西へ出発し、矢立の蒐集で著名な俵美術館を過ぎて緩やかな傾斜が擂鉢のように上下する。和田学芸員(以後和田さんと称す)によるとここが旧芦屋川の河道とのこと。(下写真)そのそばに公光大神、通称業平神社。(下写真)阿保親王の第四子として誕生した歌人、在原業平を祀る社です。長い間荒れ果てていたのを隣家岸田家によって修復、管理されておられます。この所在地は、名前に由来する芦屋市公光町ではなく、何故か芦屋市月若町となっています。月若は月若と藤栄という別の伝承に基づく由緒ある名前なんですが・・・南に折れ、古くからの道に沿いこの細い水路が片田川といい、かなり古くから集落として成立していったことが覗えます。明治・大正からは別荘地として開発されて行きその名残も残っています。(下写真)



旧芦屋川跡 公光大神
旧道と片田川
赤線は推定。
右横の方が和田学芸員。



別荘の命名?
布袋さん
芦屋川トンネル
◆ 芦屋仏教会館を経て・・・
駅前線へ出る角に布袋さんの像がまします。(上写真)製作年代に関しては不詳ですが、かなり古いようです。駅前線の堤防を上り、JR線を「平成橋」で渡ります。対岸の「ふれあい橋」もそうですが阪神大震災で損壊し、「ふれあい橋」が一昨年、「平成橋」昨年竣工し、復興を機にJR東側(西側)跨線橋という味気ない名前から命名されました。下の芦屋川トンネル(上写真)は、阪神間鉄道開通時に竣工し、時期が石屋川トンネルより遅れたため、日本で2番目に古いトンネルとなります。当時のトンネルは複々線化された時改修されたため見ることはできません。「平成橋」を渡ると芦屋仏教会館です。理事長さん自ら案内して頂きました。昭和2年(1927年)丸紅の創始者、伊藤長兵衛氏が、大阪市内から精道村に転居した際、休日に大阪で聞いていた法話を聞く場所がなく、残念に思っていました。奇しくも芦屋公会堂に法話会に集まった聴衆の多さを見て、仏教会館を寄進するきっかけとなったそうです。地下1階地上3階の芦屋川畔に聳える威容、大講堂中央に聖徳太子像を安置し、地下にはフランス料理のレストランまであったというのですから驚きです。仏教といえば、お寺のイメージですが、教会という感じで日曜学校もあり、著名人を輩出しているそうです。外部講師を招いた法話は開館以来、戦争中も中断しなかったのですが、阪神大震災で講堂にあった豪壮なシャンデリア2基が落下、倒壊し休館を余儀なくされました。屋上からの眺望もよくその眺望のよさを味わって下さい(下写真)



中二階座席
1階講堂
1階壁面
2階応接室 講堂の椅子 屋上から山手を望む
◆ 寺田遺跡群・・・
仏教会館を出て、JR線南沿いに進むと、子供たちの実践を主体とした教育を行った「芦屋児童の村小学校」のあった場所(現在:コープこうべ芦屋寮)を通り、JR線を跨ぐ「白橋」を渡る。元々、この橋は車1台がぎりぎり通れる車道,歩道しかなかったのですが、震災を機に撤去され、都市計画道路川西線の一環として拡幅再建されました。「白橋(しらはし)」という名前は南の白井池から北方面への交通が不便なので架けたので、白井池(しらいいけ)にちなんで、白橋(しらはし)となった、また城山方面に行く橋で「城橋」転じて「白橋(しろはし)」となったという2説ありました。今回の架替に際して、地元の古老等に確認して「白橋(しらはし)」と決まったということです。更に北へ進み、寺田遺跡群の発掘現場を訪問しました。和田さんのご厚意で、県教委の小川さんの説明を受けることができました。都市計画道路「山手幹線」,「川西線」予定地を現在発掘されておられ、弥生時代,鎌倉時代,室町時代と積層していたことがわかったそうです。(下写真)また最近、管玉が発見されたのはこの遺跡です。芦屋には、三条岡山遺跡から孝徳3年(650年代)の名のある木簡が出土するなど(難波宮木簡出土まで日本最古)、津知町(津に向かう道)から緑釉陶器が出土するなど、他出土品から東灘区内東灘小学校付近に湊の存在が考えられ、旧山陽道(浜街道)の前身が東西ライン,芦屋廃寺・寺田遺跡・津知を結ぶ南北ラインの存在、管理する官衙がこの芦屋にある可能性の話等伺えました。発見についての発表が近々されるようですので期待したいものです。
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寺田遺跡現地 出土品の数々 鏃・管玉
◆ 八幡神社から・・・
寺田遺跡から北に阪急線の踏切を渡り、路地を入ったところが三条八幡神社です。社域には、尼崎藩領と天領の境界を示す境界石(下写真)が保存されています。本殿横には日露戦争の従軍者の功績を賛える額が残され、地域社会に徴兵制のもたらした影響が感じられます。(下写真)八幡神社から水道筋を横切り北へくねくねとした坂が、続くようになります。いよいよ三条村の集落に入ってきたことを示しているようです。阪神大震災で庫裏が倒壊しプレハブになっていますが、真宗西本願寺派照楽寺は、京都の方からいらした水無瀬さんによって守られている由緒あるお寺です。車1台通れないような狭い道もあり、見通しも悪い坂を上がりながら山芦屋水道小屋が見えてきました(下写真)。大正年間高座川から水を引き村独自の水道として、市上水道が敷設されるまで使用されていたようです。現在でも水は流れており、先の阪神大震災で市上水道が寸断された時には、行列が続き大いに役立ったそうです。その目の前に「西仙北町集落排水」のマンホールが震災時の全国からの支援を受けた生き証人として輝いています。
道しるべ 八幡神社の顕彰額 山芦屋水道小屋
◆ 会下山(えげのやま)遺跡へ
この辺りまでくると眺望もよく「茅淳の海」(下写真)がきらきらと光り、こんな高いところにどうして住んだのかと訝っていた自分が恥ずかしくなってきました。これは湊の船の出入りも容易に把握できる絶好の場所のようです。旧地名ではこの辺は塚穴といい火葬場が昔はあったそうです。通常は閉まっていることの多い山手中学校の門を通り、会下山遺跡への山道に入ります。結構整備されていますので、ハイキングには適しているようですが、震災での破損か、踏段が高いところもありました。触覚模型(下写真),高床式米倉の復元など親しみが沸くように努められています。和田さんの話によると、頂上は私有地なので公的には整備できないようですが有志の方によって整備されているそうです。観音堂へ降りる道は草もあまり刈られていないので、道に迷うことも有りそうです。枯葉も多く、老人の方はしばしば足を取られていました。
茅淳の海 会下山遺跡案内 触覚模型
◆ 終わりに
最後に山手小学校仮校舎(旧三条小学校)のランチルームで、写真を見て場所を当てるクイズを子供たちが楽しんでいました。和田さんを中心に芦屋の昔についてしばし歓談しました。山芦屋町に旧消防署(自治体消防ではない)があったこと,昭和30年代の「細雪」は芦屋川界隈でロケがあったこと、ウルトラセブン「ウルトラ警備隊 西へ!」で地球防衛隊本部として市役所北館が出てきている,昭和40年代初頭の街並がよく出ているそうです。今は御前浜等しか砂浜は見られませんが、芦屋浜の砂はもっと奇麗だったらしいです。などいろいろ年配の方の話もたくさん出て、有意義なうちに終了しました。末筆ではありますが、事務局の皆さんお疲れ様でした。また、貴重な機会を作っていただきどうも有難うございました。
Rev.2000.12.31