阪神間歴史散歩

 手近い芦屋篇からスタート・・・

 ◆ 「阿保親王塚?」について

摂津志(日本輿地通志畿内部の一部)享保19年(1734年)に「阿保親王墓打出村四畔有冢六」と記載されているのが初見です。その記述を引いているのが、摂津名所図会で「側に小冢六つあり」と見えます。当時は親王墓とされる墳墓(円墳)の他にいくつかの墳丘があったことが窺えますが、現在ではその姿を見ることは出来ません。元禄4年(1691年)阿保親王850回忌を機に親王の嫡孫、大江音人の流れを汲む長州毛利家が墓域を改修し、現存する燈籠を寄進するなど整備に努めました。その際に周囲の小墳を破壊したらしく、埴輪円筒と鑑鏡(三角縁神獣鏡)の完形品,破片,装飾帯が出土し、現在でも親王の菩提寺「親王寺」に所蔵されています。
阿保親王は、延暦11年(792年)平城天皇の第一皇子として誕生。「薬子の変」で父平城上皇に連坐し太宰権帥に左遷。天長初頭、恩詔により帰京を許される。天長3年(826年)皇子の仲平,行平,守平,業平に在原姓賜う。その後、三品,上総太守,宮内卿,兵部卿,弾正尹を歴任し、承和9年(842年)51歳で薨去。死後、橘逸勢の変を未然に防いだ功により贈一品。この略伝では親王が打出を所領としたという記事は証明できないが、平安期には葦屋庄が皇室領であったこと,旧西国道に、京-山崎-草野(すすきの:現箕面市萱野)-葦屋-須磨と駅,厩屋が置かれていたことなどから、皇族領であったことは否定できません。
確固として言えることは、平安初期の他の皇族墓から見て親王とは明らかに年代がずれていることです。
明治8年(1875年)宮内省は、阿保親王墓と治定し、神明門の改造,周囲の土堤築立を行い皇族墓としての形式を整えるとともに、書陵部桃山管区陵墓管理事務所によって管理させ、現在に至っています。(平成7年の阪神大震災で、毛利家寄進の燈籠が一部損壊)
阿保親王墓の所在地は、名前に由来する芦屋市親王塚町ではなく、何故か東隣の芦屋市翠ケ丘町となっています。

  正面から見た阿保親王墓               大楠公戦勝記念碑 

 

 ◆ 「打出の小槌」伝説について  

昔、打出浜の沖に住む龍神が、京におわす天皇の威を恐れ人間の姿になって京に上り、願い事が何でも叶う小槌を天皇に献上しました。時暫く経って阿保親王が打出に住まわれることになりました。天皇は旅立ちに当たって親王へ「この小槌は、昔打出浜の龍神からもらったものだから、何か困った時に役立つであろう」と下されました。親王は打出村に住み善政を施されました。やがて、親王は京へ戻られることになりました。親王は村人に惜しまれながら打出を離れるにあたり「皆のことを頼む」と長者にその小槌を与えられました。長者は戴いた小槌を振ると、望むもの何でも出てきました。ただ困ったことに寺の鐘の音が聞こえると、全て出てきたもの消えてしまうのです。という昔話があります。
実際のところは旧山陽道が初めて海に出る場所が、ここ葦屋駅にあたり、波が打ち出でたるところ、から転じて打出となったというのが有力です。当地域には黄金塚, 金津山等古墳等があり、財宝伝説も多く伝承されていることから、昔話も成立していると思われます。この地名については「
阪神間を行く」で触れております。

 

 ◆ 打出合戦(1336年 北朝:延元元年 南朝:建武3年)

建武の新政に反対する武士階級の為に立上がった足利尊氏は中先代の乱を鎮圧後、鎌倉から京都へ攻め上りますが、京都で新田・北畠・楠木連合軍に敗れ、丹波へ落ち延びます。丹波で再起を期した尊氏は兵庫から打出,西宮に陣を置き、新田・北畠・楠木連合軍と大合戦をすることになりました。中でも楠木軍の奮戦目覚しく、尊氏は致命的なダメージを受け、西国に落ちることになります。その戦いのことを打出合戦と呼んでいます。戦前は忠臣として楠公崇拝が国家全体を挙げて行われていましたので、この由緒ある古戦場の一部は楠公園として整備され、本庄繁陸軍大将揮毫による石碑も建てられました。(平成7年阪神大震災で倒壊しましたが奉賛会の方々で再建されました)


 ◆ 打出浜合戦(1351年 北朝:正平6年 南朝:観応2年)

世に言う「観応の擾乱」の最終段階に当たる合戦です。足利尊氏は京都に幕府を開きますが、その体制は将軍親裁でなく、弟の直義を言わば副将軍に、代々足利氏の執事を務めた高氏、高師直,師泰兄弟が行ってきました。双方の権力地盤は異なり、双方対立するようになりました。当初、足利尊氏は高師直,師泰兄弟を支持し、弟直義を政権の場から引退させます。直義は、敵方の南朝に下り、尊氏追討の詔勅を受け、尊氏のいる京都へ進撃します。丹波,播磨と潰走した尊氏は、再度上洛を目指し、御影浜から打出浜にかけてを戦場に壮烈な戦いをしました。あわや、尊氏が自害を覚悟させる場面もあったほど壮絶で、戦うこと16度に及ぶ家臣もいました。最後は高師直,師泰兄弟を引渡し、兄弟和睦し尊氏は政権を維持することができました。高師直,師泰兄弟は剃髪の上帰順しましたが、父上杉重能を殺された上杉能憲によって武庫川畔で処刑されました。その地と伝承されるところが、「師直塚」として伊丹市寺本にあります。

 

 ◆ 鷹尾城と芦屋河原の合戦

応仁の乱後、室町幕府の実権は足利氏から管領細川氏に帰します。文亀2年(1502年)時の管領、細川政元(細川勝元の嫡男)は鬼道に執心していたこともあり、実子がありませんでした。そこで、前関白九条政基の子「澄之」を養子に迎える一方、一族である阿波細川氏の子「澄元」も養子として迎えました。双方支持する勢力に二分され、細川氏の内部抗争が始まりました。澄之を担ぐ一派は、当主政元を殺害し、澄元を担ぐ一派は澄之を殺害した結果、澄元は細川宗家を継ぎ、後押しした執事三好長輝の全盛時代を迎えました。澄之派は、河内細川氏の「高国」を担ぎ反抗を続けました。応安7年(1374年)細川頼之が摂津守護に任じられて以後、細川氏代々伝えられていたので、その領国である阪神間は戦場となりました。
永正4年(1507年)細川澄元に京を追われた将軍義稙は、周防の大内義興,河内の細川高国を初めとする西国の諸将の後押しで入京しました。阿波に潰走した細川澄元,三好長輝は永正8年(1511年)四国の兵を集め上洛し、細川高国を深井(現:堺市)に破り、中島(現:大阪市西淀川区)に陣を進めました。それに呼応した淡路の細川尚春は、兵庫に上陸し灘を進み、深江に陣を置きました。細川高国配下の瓦林対馬守政頼と芦屋河原で対決することになりました。瓦林政頼の「鷹尾城」(現:芦屋市)築城に反対した灘郷の地下衆・細川尚春勢連合軍と戦うことになり、細川高国から援軍を受け見事に撃破することに成功しました。しかし、知らせを受けた播磨衆は、瓦林政頼の本拠「鷹尾城」を城攻めし、激しい攻防の結果落城させました。そしてようやく伊丹に進出し、中島の細川澄元,三好長輝に合流し上洛、京を奪還することができました。瓦林政頼は伊丹城に敗走し、遠く丹波へ落ちのびました。まもなく細川高国が勢力を挽回し、瓦林政頼も「鷹尾城」を修復すると共に本拠「瓦林城」(現:西宮市日野町)の間に「越水城」を古城跡に築き守りを固めました。この時期が摂津の国人大名として瓦林氏が隆盛を誇った時期です。しかし、繁栄は長く続かず、永正17年(1520年)澄元派の阿波衆三好之長に攻められ、落城しました。

 

 ◆ 戦国時代の合戦

摂津守護である管領細川氏の権威が落ち、執事の三好氏へ、続いてその家臣の松永氏に、下剋上で幕府の実権が移るころ、阪神間では池田の池田勝正,伊丹の伊丹親興を凌ぎ荒木村重が勢力を増していました。荒木村重は、有岡城(現:伊丹市)を本拠に花熊城(現:神戸市中央区),尼崎城(現:尼崎市)と阪神間一帯を制圧しました。尾張の織田信長が上洛、畿内に勢力を伸ばすと臣従を誓い、摂津一国切取次第の朱印状を得ました。(以後続く)

 

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Rev2000.12.31