阪神間の成立
1.明治以前(作成中)
2.明治時代
明治維新以後、急速に地位を低下させた天下の台所「大坂」は日清・日露と二度の戦争を経て富国強兵の名の下、商工業都市として蘇えることで過去の栄光を取戻していきました。その勢いは大阪市内に人々を集め、大都市の喧騒を招いていく結果を生み出しました。その反面、旧大阪三郷に従来居住していた富裕な町衆は都市の喧騒を避け、風光明媚,高燥な地を求めて、当初は西成郡と呼ばれた周辺部、続いて、阪神間を初め浜寺等郊外に別業(別荘)を構えるようになります。中でも阪神間は鉢伏山(神戸市垂水区)から六甲山(神戸市灘区)に連なる山脈で丹波方面からの北風を防ぎ、その南面は風化花崗岩から成る緩傾斜地であり、良質の湧水を都賀川,石屋川,住吉川,天上川,芦屋川,夙川が供給し、その下流には細砂の堆積が白砂青松の景観を作り出し、居住地としては最適な環境を提供していました。そのうえ、明治7年(1874年)阪神間に官営鉄道が開設されており、大阪への交通も確保されていました。当時の官営鉄道は大阪,神崎(現:尼崎),西ノ宮,住吉,三ノ宮(現:元町),神戸のみ停車駅は存在しませんでしたが、沿線には非常に有用な交通機関でした。続いて、明治38年(1905年)阪神電気鉄道が大阪出入橋・神戸三宮間を我国初のインターバンとして開業しました。阪神電鉄は官営鉄道と違い在来の集落を結んで建設されたこともあり、停車駅も32と格段に多く開業時から1時間に5本と頻繁に運転されていたこともあり、官営鉄道の最寄駅まで約5km見当徒歩を余儀なくされた人々はこぞって阪神電鉄を利用するようになり、ここに現在のJRvs民鉄の競争が開始されました。
3.大正時代
大正時代になると、明治28年(1895年)江戸時代以来の島之内鰻谷から天王寺村茶臼山(現:天王寺公園内美術館,慶沢園)へ移転した住友本邸が大正14年(1925年)住吉村反高林へ移転するなど、富裕層の大阪市内脱出は進み、国鉄の最寄駅が当初から存在した住吉村は日本一の長者村と呼ばれるようになった。また、各企業,官庁に勤める高学歴者、所謂「月給取り」(今のサラリーマン)を中心として、家族の健康を考え郊外に住居を構え市内へ鉄道等で通勤する人々が増加するようになった。また、都市基盤に整備も推進されるようになってきた。中でも阪神間においては新淀川(中津川開削)とならぶ河川改修事業、武庫川改修は大きな意味を持つ。明治29年(1896年)の大氾濫を契機に明治31年から34年(1895から98年)堤防の修築を行ったが、氾濫は治まらず大正になって根本的な改修を迫られた。大正8年(1919年)大阪府,兵庫県共同で「新阪神国道:現在の国道2号」整備事業が始まると、武庫川への架橋問題と絡み、県直轄事業として西宮に工営所を設置,着手された。第一期事業として省線橋梁以南河口までの5kmについて、主に枝川,申川を廃川にし旧武庫川へ流路を統合し、堤防の強化を行った。この第一期事業は大正12年(1923年)竣工した。続いて、第二期事業として省線橋梁から逆瀬川合流地点までに取り掛かった。この地域は無堤地域が多く主に制水堤防の構築,流路の確定が行われ、昭和3年(1928年)全事業を竣工した。この事業は枝川,申川の廃川敷の用地売却益から工事費用を差し引いても余剰金を100万円残すなど財政面でも有益な事業であった。この廃川敷を購入したのは阪神電鉄であり、自社線以北を住宅地として分譲,以南をレジャー施設を建設した。そのレジャー施設のひとつが「阪神甲子園球場」です。現在でも駅南側広場の松林に元河川敷の面影をとどめています。こうした流入は、海沿いの酒造等軽工業地を除き小規模の商業集積地と純然たる農村社会であった阪神間を独特の文化地帯に成長させることになりました。そうした動きの中、武庫郡精道村(現:芦屋市)は鉄道省に長年「芦屋」駅設置を請願した結果、ようやく設置されると駅周辺の区画整理を実施し積極的に居住希望者を受け入れた。こうした人口の流入に目をつけ大正9年(1920年)、阪神急行電鉄と改称した箕面有馬電気軌道が阪神間の最も山手に神戸線を大阪梅田・神戸上筒井(今の王子公園の北西)開通させ、当時としては大規模な土地経営を推進しました。そうした人口流入により、大正12年(1923年)尼崎町が小田村と合併の上、市制を施行、大正14年(1925年)西宮町が市制を施行しました。
4.昭和初期(戦争まで)
大正12年(1923年)の関東大震災は罹災した文化人に、関西の世界を触れさせる契機となりました。多くの文化人は復興と共に東京方面に帰っていきましたが、谷崎潤一郎は阪神間に定住し、その才能を開花させていきました。美術界では、大正15年(1926年)小出楢重が大阪市内から武庫郡精道村(現:芦屋市)に居を移したことが、若手洋画家を呼寄せ日本モダニズムを開花させることになりました。また近在にコレクター,庇護し得る富裕層が存在したことも無視できません。音楽界では、大正6年(1917年)のロシア革命を契機に、多くのロシア人音楽家が極東から日本を経由してアメリカへ亡命しましたが、ロシア人にとって阪神間はロシア南部のグルジア,クリミア半島のような避寒リゾートを想起させたようで、その一部は定住しました。そういった恵まれた環境の中は、貴志康一のような戦前日本を代表する天才音楽家を生み出しました。東京からも山田耕筰,近衛秀麿(近衛文麿の実弟)等が集う「文化ハウス」を初め、華やかな戦前日本文化の発信地が多く点在していました。
また、進む都市化に水の問題が阪神間各自治体を悩ませていました。昭和8年(1933年)には同様の問題を抱える神戸市が川辺郡西谷村(現:宝塚市)に千刈水源地を建設したのに続いて、武庫川水系の上流青野貯水池(現:青野ダムと同一地)を計画しました。先の千刈水源地建設に際して、神戸市の姿勢は横暴ともいえるものであったため、下流自治体は、猛烈な反対運動を行い断念させました。昭和9年(1934年)兵庫県が主導して検討を開始した共同水道計画は、昭和11年(1936年)阪神上水道市町村組合の設立にこぎつけました。第一期工事として大阪市南方で淀川より取水し、尼崎市久々知の尼崎浄水場にて浄化し、武庫川右岸に供給しながら、西宮ポンプ場にて左岸地域を供給するようになり、現在の阪神水道企業団に発展していきました。
5.昭和中期〜現在まで
昭和6年(1931年)満州事変の勃発は、その後の日本の行方を大きく左右したことは言うまでもありませんが、阪神間にとっても大きな試練の始まりでした。昭和9年(1934年)室戸台風,昭和13年(1938年)阪神大水害が都市の有様を大きく変化させ富裕層の経済力を減退させると共に、折からの戦時体制がようやく開花したモダニズム文化を断絶させることになりました。
戦時体制が深まる昭和15年(1940年)、民政党政権時代に地方制度の改革が行われたこともあり、国民統制の観点等からある程度の人口を抱えていた武庫郡精道村は芦屋市として単独市制,川辺郡伊丹町は神津村と合併の上、伊丹市として市制を施行しました。尼崎市では、省線以南土地区画事業で工場用地を学生、婦人会の勤労奉仕で整備し、プロペラ工場に提供するなど都市整備が軍事産業を目的にされるようになりました。その完成年度が皇紀2600年、即ち昭和15年(1940年)に該当していたため、隣接地にその記念公園を設置しました。現在も残る「尼崎記念公園」のことです。沿岸部に工場地帯を控え、国家総動員法に基づき、宝塚歌劇,関西学院大学等大きな建築物を所有していた施設は軍関係に接収され、俄か工場として操業していた阪神間は空襲の対象とされ、コレクションとして集積された個人所有の美術品を中心に大きな損失を受けました。中でも、西宮市内の個人所有「ひまわり」が焼失したことは有名な話です。昭和20年(1945年)戦争はようやく終わりましたが、進駐軍が焼け残った邸宅,ホテル(宝塚ホテル,甲子園ホテル等)を幹部住宅,娯楽施設として接収し、美術工芸的価値を損ねる改造を施すなど試練は続きました。また、相続税を主とする税制改革,農地改革等民主化施策により、文化庇護の担い手を欧州のような個人からアメリカのような企業,団体にバトンタッチさせていきましたが、阪神間も例外には成り得ませんでした。
戦後、戦災復興計画の名の下に、大規模な市街地改造が行われました。また市制施行都市を中心に作られていた都市計画も大規模に改正され、隣接各市町との調整も同時に行われ、阪神間都市計画事業の骨格はここに定まりました。このとき、現在の国道2号だけの阪神間を縦貫する東西幹線を補強する形で、浜手幹線(現:国道43号),山手幹線(現:山手幹線,山幹通り)が策定されました。奇しくも尼崎市内の城内・築地地区を初め、建物疎開地はこの浜手幹線のルートとなっていました。全国的な工業化の波は、工業先進地域の阪神間にも例外ではありませんでした。古くから白砂青松として親しまれてきた海岸線(現在の臨港線附近)は兵庫県企業庁等の埋立により南へ南に下がってきました。今では自然の海岸線として残るのは夙川河口付近の香櫨園浜のみです。新産業都市等の税制優遇等で阪神間への工場進出がメリットが無くなって来ると、今度は集合住宅の供給先として埋立は推進されていきました。その埋立地を相互に結ぶ湾岸道路に阪神高速湾岸線が併設され、縦横結ばれることで新たな市域を形成して行っています。(続く)
Rev.2000.12.31