阪神間交通の発達
1.桃山時代以前
阪神間について交通に関する記述が初見されるのは、西暦112年綏靖天皇の時代に山陽道が開かれたということです。この山陽道は後世と違い摂津から武庫川水系を北上し、有馬郡,美嚢郡を経て播磨中央部を横断していました。律令国家の施策として全国の国府を結ぶ街道,宿駅が整備された飛鳥・白鳳時代には、難波宮から沿岸部を通っていました。平安時代に入り都が京都に移ると、山陽道は現在の国道171号のように茨木方面から西宮方面へ斜め横断し、打出(芦屋市:阪神高速神戸線芦屋入口付近)から元の街道へ合流し、現在の国道43号に沿う「浜街道」と国道2号方面に西北上する「本街道」に分かれました。土地区画整理事業等でかなり景観は変化しましたが、「打出」付近から「茶屋之町」には現在でも街道の雰囲気を残す佇まいが散見できます。また、箕面から宝塚へ出て現在の国道176号にほぼ沿い船坂,山口を経て、三木方面へ出る丹波路が分かれていました。
2.桃山から江戸時代
豊臣秀吉が大坂を政治,商業の中心として育成し始めると、淀川河口に当たる神崎(現:尼崎)水運の中継点として役割を増し、大坂・神崎・西宮を結ぶ中国街道が繁栄するようになりました。西宮神社(西宮戎)の門前町であった西宮は、中国街道と西国街道の結節地ということもあり、宿場町としても栄えていきました。その繁栄は尼崎藩 松平(櫻井)氏に属していたにも拘らず、兵庫とともに天領と召上げられたことでも窺い知れます。尼崎藩は替地を与えられましたが、商人からの運上金も期待できず財政難に陥るようになります。このことが以後の尼崎の行末を大きく変えたと思われます。御影,魚崎,西宮,今津,鳴尾,尼崎等の繁栄は地域内相互流動が盛んで、諸国廻船の碇泊の争奪もあったことに表れているようです。
3.明治時代
旧徳川幕府によって兵庫(現:神戸港)開港が行われ、当初首都に挙げられた大坂との交通手段確保は、明治新政府にとっても急務でした。天皇東遷後もその重要性は変わらず、明治5年(1872年)京浜間に続いて、明治7年(1874年)阪神間に官営鉄道が開設されました。当時は大阪,神崎(現:尼崎),西ノ宮,住吉,三ノ宮(現:元町),神戸のみの停車駅で、日本初のトンネル「石屋川トンネル」(天井川であった石屋川の川底をトンネルで抜いた。住吉・灘間高架化で現存せず),日本初の鉄製鉄道用橋梁「武庫川橋梁」(京浜間は六郷川をはじめ木製橋梁)など技術的にも特色がある工事でした。鉄道は運賃こそ高額でしたが、有用性が理解されていくにつれ利用者は増大し、全国でも投機の対象として鉄道ブームがおこりました。「鉄道国有法」の成立で民間の鉄道投資熱は減退していきましたが、御影,魚崎,西宮,今津,鳴尾,尼崎等の素封家は便利な鉄道を敷設しようと大阪,神戸の資本家と共に画策しました。監督官庁の逓信省鉄道監督局は、当然のことながら競争相手の出現を歓迎するわけありませんので、免許申請を却下しました。しかし市街電車敷設を目的とした「軌道条例」の許認可権を持つ内務省は、路線の一部が道路上に敷設されることを条件に特許を下付しました。結果、明治38年(1905年)阪神電気鉄道が、大阪出入橋・神戸三宮間を我国初のインターバン(都市間連絡電車)として開業しました。この阪神電気鉄道を先鞭として大師電気軌道(現:京浜急行)など民鉄の殆どが「軌道条例」に準拠して開業していきます。官営鉄道と違い、在来の集落を結んだ阪神電気鉄道は停車駅も32,頻繁に運転されたこともあり、乗客数を飛躍的に伸ばし増発,連結運転,更には複々線化まで計画されるようになりました。ここに現在のJRvs民鉄の競争が開始されました。
一方、北部に眼を向ければ。明治24年(1891年)伊丹,池田の素封家により設立された川辺馬車鉄道が尼崎(旧:尼崎港)伊丹間に馬車鉄道を開業しました。 大阪起点の陰陽連絡線,軍港「舞鶴」への軍需鉄道を目的に設立された阪鶴鉄道によって買収、改築され、明治32年(1899年)福知山まで全通しました。しかし、阪鶴鉄道は官営鉄道が神崎・大阪間を既に建設しており過剰投資になるということで大阪へは官営鉄道へ乗入れという形を余儀なくされました。一方、阪鶴鉄道も独自で梅田乗入れルートを計画し、明治39年(1906年)免許申請をしましたが、肝心の本線は「福知山線」と名前を変え鉄道国有化によって手を離れていきました。阪鶴鉄道の投資家はその計画を諦めたわけではなく、小林一三が中心となり明治39年(1910年)梅田・宝塚,石橋・箕面間に箕面有馬電気軌道を開業させます。箕面有馬電気軌道は、能勢街道,有馬道を沿うように走るものの阪神電気鉄道のように目立った集落も池田ぐらいしかなく、沿線には神社仏閣が点在するのみで、開業したものの乗客はあまり多くはありませんでした。そのことを逆手にとり、小林一三は沿線の土地を住宅地として分譲する、あるいは終点箕面に動物園を開く(大正5年、宝塚へ移転)、有馬温泉への延長が天険に阻まれた仮の終点鄙びた湯治場「宝塚」をパラダイスとして開発するなど、後に「阪急平野」と呼ばれる独自の沿線開発を行っていきました。
3.大正時代
第一次世界大戦による好景気を謳歌した資本家たちは、新たな投資先を有望視されつつあった電気軌道事業に向けつつありました。それは発展が見込まれ有望しされる阪神間に第三の鉄道を特許するよう、各社こぞって出願する結果を生みました。しかし、葺合から篠原,岡本,森,西宮,深江,御影を廻る灘循環電気軌道に特許が下付されたのみでした。箕面有馬電気軌道はその動きを座視せず灘循環電気軌道に連絡する形で、十三から園田,伊丹を経て特許を得ていた西宮線(明治45年着工、宝塚・門戸・阪神香櫨園間)門戸までの十三線特許を受けます。しかし、灘循環電気軌道のメインバンクであった北浜銀行が破綻したため、事業継続が困難となります。その状況で箕面有馬電気軌道が資本関係にあった阪神電気鉄道に同意を得て、灘循環電気軌道の特許を譲受け、後には吸収合併し阪神急行電鉄と改称します。その経緯をめぐり、阪神電気鉄道と阪神急行電鉄は激しい法廷闘争を演じ、六甲山開発に代表される阪神vs阪急の競争が開始されました。大正9年(1920年)阪神急行電鉄は梅田・神戸上筒井(今の王子公園の北西),塚口・伊丹間を開通させました。当初は灘循環電気軌道との連絡もあり、現在の山陽新幹線のようなルートで検討されていました。特許譲受後は、藻川・猪名川に挟まれた水害多発した低湿地を避け、後発業者の特色としてスピードを売り込もうしたため、小林一三が十三から神戸に一直線で結ぶように用地買収を命じたという逸話があります。そのため、伊丹町, 稲野村, 神津村等肩透かしを食らわされた形の沿線の町村は、地元国会議員への陳情等巻き返しを図りました。伊丹町は元領主である公爵近衛家にも働きかけたほど大きく問題になりました。その妥協として、現在の塚口経由のルートに決まり、伊丹には支線がつきました。尚、内務大臣からの特許に塚口・神戸間より塚口・伊丹間開通を優先する条件が付与されていました。阪急には距離が伸び打撃だったかも知れませんが、阪神間(特に現:尼崎市)にとっては北部の拠点を形成できた等、それなりの成果があったと思われます。その後、伊丹平野を巡って新線計画が各種持上がりましたが、特許された線を含み実現しませんでした。現在の阪急伊丹駅の構造を見ても、もはや実現することはないのではないでしょうか。
4.昭和時代(戦争まで)
昭和になると阪神間の工業化が進展し、工場用地が不足するようになりました。そこに目をつけたのが、京浜工業地帯で実績を収めた浅野総一郎でした。浅野総一郎は、鶴見地区と同様に沿岸部へ大工業地帯を造成すると共に、鉄道による輸送手段を確保する計画でした。省線神崎(現:尼崎)から道意(現:道意町6)へ南下しヤードを設置、道意から東西に分かれ各先端部(現:東高洲町,中浜町,平左衛門町)へ至るルートでした。残念ながら計画は実現しませんでしたが、もし出来ておれば、第二の鶴見線のようになっていたかもしれませんでした。
物資の往来が飛躍的に増大したため、中国街道を手直しした僅か2〜4間(4〜10m弱)であった国道はパンク寸前でした。大正8年(1919年)大阪府と兵庫県は共同で「新阪神国道」整備に乗り出します。中央に複線の電気軌道を敷設した街路樹の並ぶ広い歩道を設けた27mの道路は大正15年(1926年)完成し、その規模から東洋一の都市間道路と呼ばれました。複線の電気軌道は、阪神急行の進出で懲りたのか、昭和2年(1927年)阪神電鉄の子会社阪神国道電軌として開業しました。翌昭和5年(1930年)阪神電鉄に買収され、大正15年(1926年)に開通させていた甲子園線と一体で運行されるようになりました。当時は自動車も少なくかなり利用されたようで、特に鉄道駅に恵まれなかった瓦木村では上甲子園,瓦木と停留所が2ケ所新設され、宅地化が急速に進んでいきました。
昭和9年(1934年)鉄道省東海道・山陽線吹田・須磨間が電化され、同時に阪神間に急行電車が運行開始したことで、省線(現:JR)もスピード競争に参入しました。その動きに対抗するように、阪神電鉄は三宮滝道(今の神戸国際会館付近)から岩屋以西地下線化と共にと元町に延長し、阪神急行は上筒井から三宮へ高架乗入を果たしました。阪神急行は、上筒井・梅田間を25分で結ぶ特急を三宮まで延伸したにも拘らず、同じ25分で運行し名実と共に急行の名を欲しいままにしました。一方、阪神電鉄は住吉付近の高架工事等にて線形改良に努力しましたが、スピードでは勝てずフリークエンシー(特急・普通6分間隔)で勝負しました。これが有名な「待たずに乗れる阪神電車」というフレーズです。また、阪神電鉄は当時神戸の歓楽街であった新開地に近い「湊川」への地下線延伸を計画,本線輸送力が逼迫していたため、高速対応複々線計画を推進していました。現在の西大阪線,御影駅大阪方の高架が分岐スタイルになっているのはその名残です。また、地道な改良計画としては芦屋・打出間の盛土高架もこの時期に施行されました。その時、芦屋駅を東側に移設して欲しいと地元の要望があったのですが、下り発進時芦屋川の堤防にさしかかるため勾配を嫌い会社側から拒否されました。地元として地域振興のため、駅拡張用地の提供も申出るなど譲歩しましたが状況は変わらず、現在に至っています。どのくらいの用地か資料がなく判明しませんが、芦屋駅付近の複々線計画は腹付線増でしたから、先行して待避線が設置されていれば西側のダイヤ編成は大幅に違っていたのではないでしょうか。
戦時体制になり、陸上交通統制法が施行されると並行区間を結ぶ,資本力が弱い私鉄は半ば強制的に合併させられました。関西では、阪和電鉄が南海電鉄と合併、更に参宮急行電鉄が周辺私鉄を吸収して改称した関西急行電鉄と合併し、近畿日本鉄道となります。当時の鉄道省の計画では、並行する阪神急行と阪神電鉄を合併させる予定だったのですが、直接競合区間のない京阪電鉄と合併することとなりました。その理由として、京阪電鉄は新京阪鉄道の開業、和歌山地域の開発など財務体質が極めて悪化していたことが挙げられています。一方、阪神電鉄は財務体質も良く、沿線も軍事産業に属する企業等も多く、また関西財界,政界に大きなルートを持っていたこともあり単独で残存できたようです。
5.昭和時代(戦後)から現在
戦争が終わり、戦災で市内の家を失った人々,大阪・神戸市内から疎開してきた人々が、阪神間に定着し、第二の人口急増期を迎えます。このとき流入した人々は主に都市への通勤者が中心ですので通勤需要は鉄道に集中しました。但し、鉄道側は空襲による施設の荒廃が著しく、思うままに輸送力が増強できませんでした。昭和27年(1952年)それまで小型車ばかり走らせていた阪神電鉄は阪神間ノンストップ特急用として大型車を製造しました。また、阪急宝塚線では庄内事件と呼ばれる乗客による暴動が発生するなど深刻な社会問題と化していました。鋭意進められていた工事も完成しようやく昭和28年に宝塚線も神戸線並みの大型車で運行されるようになりました。
折しもジェーン台風,第二室戸台風が襲来し浜手を走る阪神電鉄沿線に甚大な被害を与えました。中でも尼崎海岸線(高洲〜東浜)は休止され、国道43号建設に伴う立体交差がネックとなり、残る出屋敷〜高洲も廃止されました。その代償として尼崎センタープール駅が待避線付きで設置されました。この後の高度経済成長は一層の職住分離をもたらし、阪神間のベッドタウン化を推進する結果となりました。日本住宅公団(現:都市基盤整備公団)による池田五月丘住宅,豊中緑ヶ丘住宅,西宮浜甲団地,神戸鶴甲団地,宝塚仁川団地,宝塚逆瀬川団地等、千里万博を過ぎるころから既存の鉄道沿線の徒歩圏の開発余地を越えた大規模開発が行われるようになりました。中でも川西市北部では、能勢の妙見さん参拝,平野の炭酸水,菊炭等の輸送に使われていた能勢電軌沿線に大規模な住宅開発が進められました。主なものを挙げるなら東急不動産の萩原台,西武都市開発によるグリーンタウン,大和団地によるネオポリス,進和不動産による清和台などです。この開発は川西市をベッドタウンとして大きく発展させることになりました。開発に当っては業者の公共用地確保・市への寄付を条例化するなど、所謂「川西方式」として画期的な施策をとる等ありました。しかし既成市街地へのアクセス(南北幹線)が未整備で、開発以来約30年足を引っ張ることとなります。
トラックによる貨物輸送が身近なものとなり、その登録台数は倍々ゲームのように増えていきました。そのため、完成当時には東洋一の自動車道路と謳われた阪神国道(国道2号線)が逼迫してきました。昭和35年(1960年)には時の河野一郎建設大臣の現地視察で即決され、第二阪神国道(国道43号)が用地がほぼ確保されていたとはいえ僅か4年の工期で完成しました。我国で初めて重機等を全面的に活用して建設された往復十車線の道路の完成は阪神間物流の新動脈として高度成長を支えました。しかし、千里万博直前に開通した阪神高速西宮神戸線と共に沿線住民の健康を蝕み公害問題を引き起こす結果ももたらしました。
鉄道の役割もモータリゼーションの波を受けて変貌してきました。まず、前向きの点から。川西市と北に位置する猪名川町に跨る日生不動産(現:星和地所)が日生ニュータウンを計画しました。しかし、アクセスが悪いため、近傍を走る能勢電軌へ分岐線の建設を要請しました。しかし、能勢電軌は既存路線の規格向上に追われ、新線建設どころではなかったのです。日生不動産の親会社である日本生命が、阪急電鉄の大株主ということでもあり、建設費等設備投資に関して、能勢電軌へ一切迷惑をかけないということで建設が決まりました。こうして山下・日生中央間2.6kmの日生線という社名を線名にした珍しい新線が開業しました。次に後退の点です。昭和46年(1971年)に全線廃止となった神戸市電ですが、国道43号建設の進展に伴い、阪神電鉄国道線と接続していた三宮駅前〜脇浜町が昭和43年(1968年)に廃止され、続いて阪神電車国道線東神戸〜西灘が昭和44年(1969年)に廃止されます。接続を失った国道線は乗客数の減少、運行本数の削減と悪循環を繰り返し、昭和50年(1975年)西灘〜上甲子園が廃止され、残る上甲子園〜野田が甲子園線(上甲子園〜浜甲子園),北大阪線(天六〜野田)と併せて翌年の昭和51年(1976年)に廃止され、阪神間から路面電車は姿を消しました。代わって、阪神電鉄バスによって路線バスが運行されるようになります。
余談ですが、浜手を走る阪神電鉄は上記にあるように国道43号建設に振り回されました。この他にも東明車庫(現:石屋川車庫)附近で阪神電鉄の軌道敷が障害となり、国道は車線数が暫定的に減らされて開通しました。一方、阪神電鉄は戦前から計画していた急行線用地への高架移設を進め、車庫も高架上に設置し近代化しました。その時築造した高架橋が先の震災で倒壊したのは記憶に新しいことです。
6.将来
現在、阪神間の交通は都市間高速鉄道が縦横発達し、末端輸送を路線バスが引受けていますが、地球温暖化を初めとする環境への配慮からと、軽快電車(LRT)の導入が兵庫県等で検討されているようです。バブル景気中には阪神間地下鉄南北線構想,大阪モノレールの兵庫県内への延伸,南部埋立地への新交通システム導入が計画されたようですが経済の低迷,人口増加の鈍化等で前進していないようです。今後の交通は地域の発展と共存させるかたちで行われなければなりません。そのためには自動車偏重の交通がどう是正するかが大きな問題です。
Rev.2000.12.31