
山梨県甲州市からの甲州街道巡りは、ほとんどが雨に祟られた。
今回の、みのぶ道は快晴。みのぶ道の最後は、躑躅ヶ埼館迄で登城を断念した要害城へ行くことにした。
石和の「かんぽの宿石和」でゆっくり朝湯につかり、バイキング朝食をすませ・・・
後は要害城へ登城し、1000円の高速代を利用して帰るだけである。
<要害城>
躑躅ヶ埼館(武田神社)から県道31号線を2キロメートルぐらい北上すると、要害城登山口に着く。
その手前に武田信玄公誕生の寺で知られる積翆寺があります。
「積翆寺」
「武田信玄公誕生の寺の碑」

積翆寺の由緒書きを、そのまま紹介する。
当寺は臨済宗妙心寺にして行基菩薩の開創による。鎌倉時代の1521年、夢窓国師の弟子により開山なり。
福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。
これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり。堂西に盤石あり、
高さ89尺泉これに激して漠となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。
積翆寺の名園は夢窓国師の築庭なり。
「要害山登山口にある石碑と案内版」


要害城は、1520年に武田信虎が築いた山城です。
居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立て籠もる詰の城としての役割を担っていました。
信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されました。
城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、
竪堀や堀切を要所に設けて防御を固めています。
山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されます。
南東尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪堀が特徴的です。
又、ふもとには根古屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷が想定されています。
要害城は、熊城とともに遺構の保存状態がきわめて良く、記録が豊富に残されているなど、
戦国期の山城の様相を今日に伝える貴重な山城です。
それほど急斜面ではないが九十九折の登山道が続いている。
初夏の若葉を愛でながら、ウグイスの鳴き声を聞きながら・・・爽快な気分にさせます。
「登城してすぐ所、大手道の石垣」

「烽火台?」

登山道から大きな岩盤を利用して、突き出したような所があり烽火台と言えなくもない。
15分ぐらい登ると石垣、竪堀、土塁跡、城門跡などがあり退屈しないで遺構が堪能できる。
「竪堀跡」

「土塁」

「大手道」

「石垣」

「門跡」

石積みを築いた虎口で、ここに防御を目的とした門が建てられていました。
「けものが掘り返した跡、そして糞」

何の動物か判然としない。猪、鹿・・・熊ではないだろうが・・・勇気を出して主郭跡まで。
「不動曲輪」

不動曲輪の名称は、江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するものと考えられます。
「堀切の石垣」

「曲輪」

この曲輪は、小規模なものと異なり、山腹を大規模に造成して広い平坦地を造っています。
ここから主郭部にかけて、大きな曲輪が連続しています。
「主郭部」

山頂に築かれた主郭部は東西73メートル、南北22メートルの長方形で、周囲に土塁を築いています。
城の最も重要な場所であり、庭園に用いられていたと思われる石も残っています。
「標高780メートルの頂上より」

最後に積翆寺温泉について・・・信玄の隠し湯の一つと伝えられています。
要害山麓の閑静な山あいに二軒の温泉旅館で営まれています。尾根を隔てた西方の養曽沢に
あるのを古湯坊、東方の要害山入口に位置するのを要害といいます。
泉温は15〜20度と低温ですが、緑ばんを含み、リュウマチや神経痛などに効果がある
といわれています。森林浴や歴史散歩の格好の湯となっています。
健ちゃん積翆寺温泉組合のまわし者でもなんでもない。
「お城の健ちゃん」みのぶ道をゆく_完

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