
「みのぶ道」は戦国期から甲斐と駿河を結んだ信仰の道で、ほぼ現在の国道52号線にあたる。
戦国時代に武田氏が、東海道筋への覇権を求めて駆け、駿河の今川氏は武田攻略のため
軍勢が甲府へ攻めのぼるなど、天下取りを目指す両雄にとって重要な軍用道路であった。
又、「みのぶ道」は信仰の道としても賑わい、日蓮宗の聖地、久遠寺への参詣のため
多くの旅人が往来する街道でもあった。
「健ちゃんのみのぶ道をゆく」は、山梨県の最終地点南部へと入る。
この南部は信虎、信玄、勝頼の武田三代と祖を同じくする甲斐源氏一族、南部氏の発祥の地である。
鎌倉時代、この地一帯に勢力を広げた波木井実長は
1274年、日蓮を鎌倉から招く。そして日蓮は身延山久遠寺を開いたのである。
さて、その南部氏であるが、南北朝時代に奥州の奉行となって、
陸奥の国に勢力を拡大していくのであります。
<波木井城>
みのぶ道を波木井町に入り、波木井坂上のバス停から右折した所に波木井城跡がある。
波木井城跡碑のある脇から城跡まで行かれるはずであるが、なんとその入口に長〜い鎖に繋がれた
大型犬が城跡の入口を塞いでいるのでありました。


波木井城は身延山東麓の標高300メートル前後の小高い山に位置し、遺溝等の確認は明確ではないという。
甲斐と駿河を結ぶ富士川沿いのルートであり、城の位置としては交通の要衝を押さえていた立地と考えられる。
1521年に今川氏の武将、福島正成の率いる駿河勢が甲斐の国に乱入した。
身重の正室の大井夫人も要害山に避難させるほど、武田信虎は足元の甲府盆地まで攻め込まれながらも撃退した。
この時、波木井城主波木井義実は今川氏に通じていたため、武田信虎に波木井城で殺された。
波木井義実は波木井実長の系統を引き、この城を中心に相当の勢力をもっていたと思われる。
「城跡からの富士川の眺め」

<波木井氏館>
身延山総門の手前に波木井氏館跡(南部氏館跡)がある。

南部氏が奥州に移ったのちも甲斐の残り旧領を支配した。
上方の山はかつて波木井氏、南部実長が築いた館跡だったとされている。
「身延山久遠寺総門」

「身延山久遠寺山門」

激動の時代に不屈の信念を貫いた日蓮、日蓮に帰依していた波木井実長により身延に招かれ
身延山久遠寺を開き、晩年を過ごした所でもある。
身延山久遠寺から更に南下する。南部トンネルの手前に、円蔵院がある。
「円蔵院」

河内領主穴山伊豆守信友の墓があります。
「穴山信友の墓」


穴山信友の墓の前は青い苔が一面に敷きつめられており、
その苔が醸し出す景観は見事というほかありません。森閑とした静寂に包まれた空間は
聖地のようでもあり、なんとも気持がいい。
「おまけの紫陽花」

<南部氏館>
南部分館のバス停の手前に南部氏館跡がありますが、なかなかその場所が発見できない。
バス停のところの酒屋さんに訪ねると、御主人にその場所まで案内していただきました。
狭い路地を入った分かりにくい所に、その説明板が掲げられておりました。

甲斐源氏の祖といわれる新羅三郎源義光から三代の加賀美遠光の第三子三郎光行は、
1180年、兵を挙げた源頼朝に従い平氏討伐に戦功があって、
この地を与えられ、地名をとって南部三郎光行と称したといわれる。
光行はここに館を構えたが、1189年奥州藤原征伐に功労があって
糠部(青森・岩手の一部)の広大な地を与えられたので光行の子等は
第三子の実長を波木井戸に残して他は奥州に移ったので、この館がいつまで使われたのかは明らかでない。
記録によると「屋敷は東西約109メートル、南北約72メートル」とあり、
土塁、泉水、堀があったが今は埋められ窪地になっている。
北方には差し渡し約2.1メートルの堀抜き井戸が残り云々」とある。
現在はこの井戸だけが僅かに昔を偲ばせている。
「南部氏館跡からの富士川の景観」

<八幡屋敷>
その酒屋さんのご主人に日蓮ゆかりの寺を紹介された。その裏山が八幡屋敷跡である。
「妙浄寺」

日蓮上人が身延へ入山する際、即ち1274年5月16日この寺に一泊したとある。

本堂の裏手には、八幡屋敷といわれるところがあり、ここには昔八幡社があり、
南部家二代実光公により1220年奥州三戸に御神体を移し、現在は八戸市の櫛引八幡となっているといわれる。
<四條金吾頼基屋敷>
富士川に架かる南部橋を渡った所の内船公園の所に内船寺があり、その境内が
四條金吾頼基屋敷跡であるという。
「内船寺」

御住職が庭で作業中であり、少し話を聞くことができました。
この境内が屋敷跡とされているが、遺構がなにも発見されていないことから
おそらくこの境内よりも大分前の方が屋敷跡であったと思いますよ・・・ここはお墓だけでしょう・・・だと
「四條金吾頼基の墓」

当寺は日蓮上人の熱心な信者、四條金吾頼基が邸内に三間四面の持仏堂を建立したのにはじまる。
四條金吾は四條中務三郎左衛門尉頼基という。
頼基は、時の執権北條泰時の甥にあたる江馬入道光時の家臣で、
夫婦そろって深く日蓮上人に帰依し、鎌倉に在って「法華宗の四條金吾」と名高く、
常に日蓮上人の庇護につとめた。
又医薬にも通じ、主君、光時の大病を平癒させた功によって内船の地を与えられたものである。
「お城の健ちゃん」みのぶ道をゆく_7へ続く

|