
今、佐伯泰英の時代小説「居眠り磐音・江戸双紙」を読んでいる。 15巻「驟雨ノ町」の中で、
今回の「みのぶ道をゆく_5」に登場する市川陣屋と、みのぶ道が舞台である。
主人公坂崎磐音が押し込み強盗(鰍沢の満ヱ門)を、市川陣屋から江戸までの護送を依頼され
南町奉行所木下一郎太と、友人品川柳次郎と武村武左衛門をともない引き取りに
行くくだりが、まさに「健ちゃんのみのぶ道をゆく」なのでありました。
小説の世界を思い浮かべながら、春のそよ風に誘われ、
富士川沿いから聞こえるウグイスの声に耳を傾け、みのぶ道をゆく・・・なんとも一興でありました。
もっとも、小説の中のクライマツクスは、
みのぶ道よりも、みのぶ道と並行して走る富士川の船の上が小説の舞台でしたが。
<浅利与一館>
県道12号線で釜無川を渡り、そして更に笛吹川を渡り国道140号線に出た所に
浅利与一館跡がある。館跡入口らしい所に城跡碑が建てられているが、
その先は草茫々で登れる状態ではない。

浅利与一館跡から県道29号線で南下し、豊富小学校から右折した所に浅利氏の菩提寺がある。
「大福寺」

奈良時代の739年に創立。
鎌倉時代の1211年に浅利郷の領主浅利与一義成公が菩提寺として、伽藍を修築し寺領を寄進した。
与一弓道場の裏手に浅利与一義成公の層塔と五輪群がある。
「浅利与一義成公の層塔と五輪群」

「浅利与一義成公記」
1149年、清光の第11子として誕生、16歳元服の頃浅利郷を所領し
郷名「浅利」を姓としたものと推定される。
以来領民を慈しみながら、武将として研鑽を重ね、1180年8月挙兵に呼応して
富士川の合戦に馳せ参じ武将として地位を確立した。
平家を追う義経に従い、1185年3月24日壇ノ浦の合戦の折り、平家との矢合わせに勝ち、
遠矢の誉れを天下に響かせるに至り、頼朝御家人としてその活躍が見られる。
やがて将軍は頼家となり、1201年越後に反乱が起き、坂額御前の奮戦によって幕府軍は苦戦したが、
ついに捕らえられて鎌倉に送られてきた坂額を頼家より請い受け、妻とした。
「与一弓道場」

立ち寄ってみたが丁度練習が終わり、弓道具を片づけているところで練習風景は見られませんでした。
健ちゃん弓道はやったことがない。いつも走るのは旧(弓)道ばかりなり。
「中央市豊臣郷土資料館」


大福寺と隣接した所に資料館がありましたが、浅利与一義に関係する資料はありませんでした。
その中のレストランでやっと昼食にありついたのであります。
<上野城>
甲斐上野駅の所に上野城があるが、「歌舞伎文化公園」になっており立派な天守閣を備えた
模擬天守がありましたが、甲斐には天守閣を備えた城は造られていない。興ざめするばかりである。
「模擬天守」

公園の隅に蹴裂神社があり、境内に上野城(一条氏塁)跡碑が建てられておりました。
「蹴裂神社」

「上野城(一条氏塁)跡碑」

武田信玄は始祖武田信義の嫡男、一条次郎忠頼に始まる一条家の名跡の絶えているのを惜しみ、
異母弟一条右衛門太夫信竜をたてて家跡を継がせた。
信竜は、ここ上野の地に塁城を築き、その子上野介信就と共に、
騎二百を率いて武田滅亡まで甲南の守りを固めていた。塁跡は蹴裂神社となっている。
歌舞伎文化公園と上野城跡との関係は・・・
この地は古くは、縄文・弥生の時代から人々が居を構え、古代ロマンに彩られた地であり、
その遺構は、狐塚、大塚、伊勢塚、エモン塚など数多く、史跡として現存しております。
近世においては、甲斐の守護職であった武田信玄公の異母弟で武田24将の一人、
一条右衛門信龍がこの地に上野城を構え、騎馬武者2百騎を擁して甲斐南領の守りを固めておりました。
往時、武田家の能係をつとめたとされる堀越十郎式部、さらに、その孫堀越十郎家宣が、
相模北条氏との戦いで、武功をたて上野の地に150貫の領地を拝領、信龍の家臣として居を構えました。
勝頼の代、武田氏は織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ、十郎家宣は下総の国幡谷、
現在の千葉県に逃れました。即ち、江戸歌舞伎、初代市川団十郎の曽祖父であります。
現、12代市川団十郎こと、堀越夏雄が三珠町名誉町民として本町と深い縁で結ばれる由縁であります。
先ほど小説の中で、紹介した市川陣屋です。
<市川陣屋(市川代官所)>
市川本町駅の前に市川陣屋跡があり、陣屋門が保存されている。


御陣屋と呼ばれている代官所は、1765年、駿府紺屋町陣屋の出張陣屋として、
代官小田切新五郎による3万石余の支配からはじまり、1795年、代官榊原小兵衛の時代に、
陣屋建て替えで正式に本陣屋となった。初代代官から25人で明治維新となる。
駅を挟んで反対側に夢窓国師ゆかりの宝寿院がある。
「宝寿院」

鎌倉末期、夢窓国師親子一家が伊勢より来院され、国師9歳の時、空阿上人に師事し当院で出家しました。
18歳まで修行した。
<源義清館>
宝寿院の裏の丘(住宅街)に、熊野神社があり源義清館跡だという。「甲州街道をゆく」の中で、
何回か源義清館跡が出てきたが・・・そんなことは余り気にしないのである。
ようは、そう言われていると云うことであり、確かな歴史的根拠は無い??
「熊野神社」

この神社は、甲斐源氏義清が甲斐の代官として、平塩に館を構えていた時守護神として祀ったのが初めで、
その後、平塩地内の諸神をここに集め祀ったと伝えられている。
「源義清公館跡伝承地の碑」

「甲斐源氏旧蹟の碑」

1078年八幡太郎源義家の弟新羅三郎源義光が官を辞し、
軍兵を従えて奥州に下り兄の陣(後三年の役)に加わり武功をたてたその功績により、
甲斐守に任じられたので、義光の三男である源義清が甲斐の国へ下向し、
平塩へ館を築き、甲斐源氏勃興の基を開いた。
平塩の丘よりはるかに望む八ヶ岳の山麓は広大な逸見庄で牧草が密生し、
放牧の最適地であったので義清は長男の清光と共にこの地に移り、
駒の飼育に精進するが、やがて甲斐の黒駒と云われる名馬の産地となり、
毎年優秀なものを朝廷に献上する例となっていた。
清光は逸見庄に根拠をおいたので逸見冠者とも黒源太とも云われ、
父義清とともに智略に富んだ勇猛な武将であった。義清は平塩の館で75歳で病没している。
これより約400年を経て甲斐は武田氏の時代となる。
<下山城>
みのぶ街道をぐんぐん南下し南巨摩郡身延町に入る。地図で言うと3ページ分になる。
矢沢橋北詰の信号から右折した所に本国寺があり、入口に下山城跡の碑が立てられている。
「下山城跡の碑」

「本国寺」

甲斐源氏・加賀美遠光の孫光重は1201年、下山に入部し下山小太郎光重と称した。
光重の子、兵庫介光基が1260年に開基した。
光基の子・次郎は入道し後に因幡房日永と称し比叡山修学のみぎり最蓮房と相知り、
1275年最蓮房上人が身延山へ参る途次、この館に一泊し、因幡房もともに身延山に登った。
ここにおいて弥陀を離れ、法華に帰した。
しかし、父光基は従わなかったが日蓮聖人は「下山消息」を著して光基に寄せられた。
これにより日蓮聖人の門下となった。
室町時代に入り、武田氏の一族穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居館を構えた。
当寺と穴山氏との関係は深く境内にある穴山八幡神社は穴山信君を祀っている。
「穴山八幡神社」

本国寺の裏に南松院がある。
「南松院」

開基穴山信友夫人は武田信玄の姉で梅雪の生母である。
梅雪の養女下山殿と徳川家康の子武田万千代丸(信吉)は水戸藩を開いたが
21歳で夭逝したので家康12男頼房が水戸に入った。この縁で本院の修理は水戸藩で行った。
梅雪夫人は信玄の娘で梅雪没後まもなく一子勝千代の死により穴山氏が絶縁したので
江戸城に入り三代将軍家光の異母弟会津藩祖保科正之を養育した。
「南松院庭園」

池中の亀石は南松院夫人が穴山信友に嫁ぐ際、父信虎に請い持参したと伝えられる武田家伝来の霊亀石である。
「お城の健ちゃん」みのぶ道をゆく_6へ続く

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