<秋山光朝館>

小学生の手作り案内版に感動した椿城跡から、ウエスタンラインを1.5キロぐらい南下する。

甲西郷結トンネルを潜ると熊野神社があり、境内に秋山光朝館跡の碑が建てられている。

「熊野神社」



「秋山光朝館の碑」



「秋山光朝城郭古図」



秋山光朝は甲斐源氏加賀美遠光の嫡子として1158年頃、加賀美氏館に生まれた。
初め加賀美太郎と言われたが、大井の庄を支配するに及んで山寄りの要害地秋山に館を構え、秋山太郎と称した。

当地はその館跡で東西約120メートル、南北約60メートルの丘状を呈し、
西側及び南側に外溝の跡が認められる。光朝は平時京都に在って平氏に仕え、平清盛の子、知盛の側に属し、
又清盛の長男重盛の娘を妻とした。このため1180年10月の源氏旗揚げの際遅参し頼朝の不信をかった。
又木曽義仲と通じていたため、これを理由に鎌倉勢に攻められ背後の雨鳴山に於いて自害したと伝えられている。

<河村下野守道雅館>

みのぶ道に戻り古市場の信号を少し南下した所に、地図にも載せられていない
常泉寺と成妙寺がある。この辺り一帯が河村下野守道雅館跡だという。常泉寺にその碑が建てられている。
最初、その場所が分からずバス通りの美容院で聞いたら、
たまたまネットを被っていたお客さんが知っていたのであります。

「成妙寺」



この成妙寺には辻嵐外の墓があるが、なんでも江戸後期の俳人らしい。
『笹の葉や 今に鶯 としよらず』という句が・・・「としよらず」とは、よくわからないのであります。

「常泉寺」



河村下野守道雅は、武田勝頼の「御なんど奉行」で、衣料・調度などを取り仕切っていた人物である。
武田氏滅亡時には勝頼や信勝らと行動を供にし自害した。
常泉寺は河村道雅死後、妻が自らの住居をお寺とし、「河村山常泉寺」と名づけたという。

常泉寺から再び古市場の交差点まで戻る。その近くに信玄の生母大井夫人縁の古長禅寺があります。

「古長禅寺」



「古長禅寺ビャクシン」



山門前に樹齢約700年というビャクシンの樹が仁王立ちしておりました。

「大井夫人と古長禅寺」

大井夫人は1497年甲斐西郡の雄、大井信達の長女として生まれた。
当時、世は室町の中期でもすでに戦国争乱の時世、父信達は1515年頃、
国主武田信虎と勢力を競い合い戦いを交えたが、勝敗つかず和議が成立した。その結果、
政略結婚によって夫人は信虎のもとに嫁ぎ、嫡子晴信、信繁、信廉、今川義元夫人等の生母となった。
晴信には大井氏の菩提寺住職岐秀元伯に文武の道を学ばせた。
(よって古長禅寺は、晴信公の薙髪の道場とも呼ばれている。)

「みのぶ道_2」の西原五輪塔群のところでも説明済みです。

夫人は1541年信虎駿河退隠には従わず、除髪して躑躅ヶ崎館北の曲輪に住んだ。
よつて「御北様」と言われ、1552年5月7日55歳で逝去、大井の庄鮎沢の当長禅寺に葬られた。
後信玄は夫人が深く帰依した岐秀元伯和尚を開山として、甲府長禅寺を建立し、母の菩提所と定めた。
これにより当寺には「古」の字を冠して古長禅寺と言われるようになった。

「大井夫人の墓」



「大井氏家系図」



境内には大井氏家系図と共に大井夫人の墓があります。

古市場の交差点から釜無川方面に向かうと、時間が止まったような空間、安藤家住宅です。
そこには江戸時代の風が流れておりました。心の奥に遠い思い出がよみがえるのであります。
別に江戸時代住んでいたわけではありませんが、そんな気がするからしょうがない。
今にも腰に大小、脇差を携えた浪人が、名主の用心棒として現れそうな雰囲気であります。
流派は居眠り剣法、神田三崎町の佐々木玲圓道場の高弟・・・小説の読み過ぎか・・・。


<安藤家住宅>


「安藤家住宅見取り図」



「表門外側から」



「表門内側から」



「主屋」



「蔵」



「別な角度からの主屋」

安藤家住宅の先祖は武田氏の家臣で、かつては小尾の姓を名乗り、
武田家滅亡後は帰農して、姓を母方の安藤に変えたと言う。
1708年に、この地に居を構え西南湖村の名主を代々務めた。

この西南湖村は、釜無川と滝沢川に挟まれた水田地帯で、
江戸時代の地誌、甲斐国志によると石高803石9升3合の村である。
西河川は度々洪水を起こし、この周辺の村々も苦しめられたと言う。

屋敷は4400平方メートルを越え、
主屋は大規模で材質、建築手法等がすぐれ建築年代は1708年で古い。

この1708年は、前年には宝永の大地震が起こり、その後富士山が最後の噴火をしています。
江戸まで火山灰が届きましたが、甲府盆地側はほとんど影響を受けなかったそうです。
又、1703年には忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りがありました。そんな時代です。
又、建築年代はやや遅れるが付属する長屋門、茶室、お蔵等もよく残されている。
広大な敷地も含めてこの地方における豪族の家屋を知る上で、貴重なものである。

「茶室」



「池」



池には様々な野鳥が飛び交っている。平安時代から鎌倉時代にかけてこの地を舞台に活躍し、
全国へと羽ばたいた甲斐源氏の一族の羽ばたきのようであります。
あまり素早い動きで写真には捉えられないのでありました。

「板塀」




<奈胡十郎義行館>

安藤家住宅からすぐの所に、奈胡十郎義行館跡があります。



甲斐源氏の冠者黒源太清光の十男として1147年4月辺見の庄に生まれ、
1160年4月より奈胡の庄に住し、奈胡十郎義行と称す。
1173年、京に上り暉子内親王に仕え蔵人となり従六位下を賜る。
富士川の合戦に参加し平家追討に功あって鎌倉に重んじられ従六位上に叙せられる。
1191年に、奈胡の庄に退き庄司の職を執るも甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝勢に攻められ、
1203年6月15日討死57歳。

「もののふの 攻めたたかいし富士川の すすきにそよぐ 秋風の音」

お城の健ちゃん」みのぶ道をゆく_5へ続く