南アルプス街道を釜無川に向かう。釜無川に架かる信玄橋を渡った左手に信玄堤が広がる。
「やまなしの歴史文化公園・信玄堤」として、説明板も充実して整備されている。一部「みのぶ道1」でも紹介した。

「信玄堤」



右側奥が高岩か・・・



「聖牛」





この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法のひとつで、
戦国時代のこの甲州が発祥の地といわれています。
三角の形をしているので、上の部分が牛の角のように見えるためこの名前がついた。
「聖」の意味ははっきりしませんが、現代風にいえばスーパーとかウルトラという意味だろうともいわれています。

「おみゆきさん」



「おみゆきさん」は、平安時代に甲府盆地西側の水害を治めるために朝廷から命じられたことから始まり、
戦国時代には信玄が祭主となり甲州治水を祈らせたと言われている。

公園の前に三社神社がある。

「三社神社の石鳥居」




奉納年代は室町時代中期のものと推定される。本神社は創建年代は明らかではありませんが、825年、
国中地方に大水害が発生した際、現在地において水防祈願のため川除祭を行ったと伝えられている古社です。

「築堤本陣跡の碑」



「水神の碑」





<金丸氏館>

又、南アルプス街道を南アルプス市に戻り、野牛島の信号を左折した所に長盛院があり
ここが金丸氏館跡だという。

「長盛院」



「土塁跡」



金丸氏は代々武田家に仕える家柄で、現在の長盛院の地に館を築いた。
東側が崖の要害で、西側には土塁と堀がめぐらされている。

4代金丸虎義の次男が武田24将にも数えられる土屋右衛門尉昌続、5男が土屋惣蔵。
土屋惣蔵の遺児 惣蔵忠直は、母方の駿河岡部直規を頼り清見寺に落ちつくが、
鷹狩に出た徳川家康が、武田名臣の子忠直を見出し 武田氏所縁の側室阿茶局の養子として 秀忠の小姓とした。

「久留里城城主と忠臣蔵」

忠直は、上総久留里二万石を賜わっている。忠直次男数直は家光の近習となり、常陸土浦にて明治まで続いている。

「上総久留里城・・・参考」




更に、その子孫二人は忠臣蔵と深く関係しています。
一人は老中となった土屋政直で、浅野内匠頭を裁く立場となり、
一人は適役吉良帝の隣に住んだ土屋主悦で、打ち入りを見逃すだけでなく、
高提灯を掲げ赤穂浪士を助けたと伝えられています。(忠臣蔵の関わりは南アルプス教育委員会資料より)

1582年3月11日、武田滅亡の日、天目山栖雲寺に向った勝頼一行は、
織田軍に行く手を阻まれ、田野に引き返した。このとき、昌恒は崖道のもっとも狭いところで岩角に身を隠し、
片手は藤蔓につかまり、片手には刀を持ち、迫り来る敵兵を切っては崖下に蹴落とした。
世に言う「片手千人斬り」である。「甲州街道をゆく_1」で詳細は解説済である。

「土屋惣蔵公の遺蹟」






ここは武田の忠臣土屋惣蔵公の生まれ、又葬られている所です。金丸伊賀守光信はこの地の館内に長盛院を建てた。
惣蔵公は光信の孫筑前守虎義の5男に生まれ、駿州土屋氏を継ぎ、少時より勝頼公に仕える。

余談になるが南アルプス市の出身の政治家で、政界のドンとか言われた金丸○がいたが
こんな由緒正しき出の政治家だったとは知りませんでした。確か悪いことをして逮捕されたのでは・・・。

みのぶ道を南下し飯野の信号から県道39号線を左折し、白根のインターチェンジを越えた所に
西野姫ゆかりの円通寺がある。

「円通寺」



「西原五輪塔群」



西野の武将、明慶院には西野姫と呼ばれる美しい姫がおり、武田信虎に嫁ぐことになっていた。
しかし、敵対する大井氏(大井信達)に今井原の戦いで、武田の援軍も間に合わず一族が滅ぼされたため、
西野姫は尼僧となったという。円通寺の北西には、明慶院と西野姫の供養塔と伝えられる五輪塔群がある。

大井氏については古長禅寺のところで再度説明いたします。

「お城の健ちゃん」みのぶ道をゆく_3へ続く