いにしえの昔、近い過去、人は川とともに生きていた。
南アルプス市北部を流れる急流御勅使川、市の東を泰然と南流する釜無川。
この二つの川は命の源である水を与えてくれる母なる恵み、しかしいたるところで洪水が頻発し
人々の生活や命までもが脅かされてきた。

今回の「お城の健ちゃんみのぶ道をゆく」は、その信玄伝承の治水事業に触れ

そして富士川街道(みのぶ道)を南下し、南部氏発祥の地、南巨摩郡南部町までを訪ねる城巡りである。

中央自動車道路韮埼インターで降り、富士川街道に出て南アルプス市に入る。
六科の交差点を右折し、4、5百メートルでセブンイレブンのある信号を右折した所に
武田信玄の治水事業の将棋頭がある。
将棋頭とは、分流堤の形が将棋の駒の頭部に似ていることから名ずけられたと言う。

「将棋頭」







「御勅使川の流れを集める・・・信玄堤の案内版より」



御勅使川は、巨摩山地を水源として、甲府盆地を流下する急流河川で、山腹や渓岸を侵食し、
大量に土砂を運び幾度となく氾濫を繰り返し日本有数の大扇状地形を形成しました。

戦国時代の1541年、甲斐の守護職となった武田信玄は、
度重なる洪水で困窮していた領民を救うため一大治水事業に着手しました。
まず富士川(釜無川)の河道の安定化に着目し、それには富士川と御勅使川の合流処理が先決と考えました。
当時御勅使川は扇状地を自由奔放に流れ、現在の信玄橋付近で富士川と合流しました。
これを巨摩山地より扇状地に流れ出る白根町駒場付近において石堤「石積出し」を
雁行状に何本も築いて流路を北東に向けました。
さらにその下流白根町有野地先で、圭角の石積の堤防を築いて激流を二分し水勢を弱めました。

この分流堤の形が将棋の駒の頭部に似ていることから、「将棋頭」と人々は呼び今日に言い伝えらけれています。
二分された水流の一方は、新河道を開削して主流としさらに下流の韮崎市竜岡町下状南割地先で、
将棋を築き、ここで分流し左支流の割羽沢川の合流を調整しました。
一番目の将棋頭で分流された旧河道を前御勅使川と呼び、新しく開削された河道を後御勅使川又は本御勅使川
と呼びました。現在の流道は本御勅使川を流れています。

割羽沢川を合流した水流を富士川との合流点に「16個の巨石」を並べて高岩に打ちつけるようにしました。
又一方前御勅使川を流下してきた水流を高岩から跳ね返る富士川に合流させ一層水勢を弱めました。
さらに高岩より下流に延々と堤防「信玄堤」を築き甲府盆地全域を洪水から防ぎました。
この一連の大治水事業に費やした年月は約20年間といわれています。
この治水事業の工法は、我が国における河川砂防工学の祖といわれ「甲州流河防法」
と呼ばれ日本各地で用いられております。

「武田信玄公の治水事業想定図」



少し細かい字だが、十六石と高岩が確認できるだろうか・・・


「高岩」



この高岩で御勅使川の流れの勢いを弱めました。


「十六石」



釜無川の流れを高岩へ導流するための石です。

その将棋頭の入口の所、県道20号線沿いに龍神堂なるものがある。


「龍神堂」





御勅使川並びに支流の氾濫に難渋した住民が、立正佼成会員の夢枕に現われたので、
守護神として立正佼成会中巨摩支部が建立したというから面白い。健ちゃん、宗教とは無関係。

更に県道20号線(南アルプス街道)を進み、塩の前のバス停を右折した所に「石積み出し」がある。

「石積み出し」





御勅使川を北側に押し出すためのもの。

その他信玄堤の案内版よりいくつか参考資料を紹介するる

「竜王用水取水口」



「信玄堤と御勅使川・高岩の全体説明」



「信玄堤整備前の模式図」



<栖沢城>

愛用の地図には、塩の前のバス停から入り白根西橋を渡った山に栖沢城跡と善応寺が記されていたが
善応寺まではなんとか辿り着いたが、栖沢城跡までは確認できませんでした。
善応寺の近辺が栖沢城跡であることは間違いないと思うのであるが・・・

「栖沢城・善応寺案内版」



いつ立てたものか、栖沢城・善応寺案内版は立派なのでありますが・・・
善応寺は現在は無住職で、善応寺由緒書きに栖沢城跡のことが次のように記されていました。

善応寺は1278〜1288年に本尊に釈迦如来を祀り笹見浦政綱公を開基とし
大休佛源禅師を迎えて開山したと伝えられている。大休佛源禅師は中国より渡来した高僧である。
南北朝の1351年、高播磨守師冬は城主逸見孫六入道と栖沢城によって、
諏訪直頼軍と戦いこれに敗れ滅亡したが、この兵乱により善応寺も被害を受けた。

高師冬は足利尊氏の四男基氏の家臣で、同じ家臣の上杉憲顕と勢力争いをする。
逸見孫六入道とは武田一族の逸見氏であろう。


「宝篋印塔」

善応寺境内に立派な宝篋印塔が保存されておりました。






この宝篋印塔は、鎌倉時代に出現した石塔で、五輪塔とともに日本石塔の二大主流をなすものである。
幸いにして当初のものが完全に保存されている。すこぶる雄健で洗練された手法が見られ、
無銘ながら鎌倉末期の風格を備えた貴重な遺構である。
寺歴には、栖沢城落城の時の城主某のご霊廟と伝えられている。

<名取将監(しょうげん)屋敷>

南アルプス街道を約3キロメートルぐらい更に進むと大宝寺があり、その辺り一帯が名取将監屋敷跡
であると伝えられている。

「大宝寺」



この大宝寺由来記に面白い記述があり紹介する。

孝謙女帝が、芳野清遊中病気にかかり、夢に甲斐の国、湯島郷に効験あらたかな霊場がある。
行けば必ず病気は治るだろうという神託を受けたので、吉野を出発された。

大宝寺由来記によれば、女帝は御勅使川を遡り、現在のドノコヤ峠を越えて奈良田に向かわれたらしい。
その途中、白鳳応の庵に一夜をやすまれたとか、この白鳳応が一説には孝謙女帝の母とも言われているが、
大宝寺由来記には、白鳳応を如山居士と記してあるので、男と思われ一種の隠者であったらしく、
華厳宗の開基恵蔵法師の高弟である宗見和尚とともに、観世音を本尊とする大宝寺を建てた。

現在、白鳳応の碑は、諏訪神社の境内にある二基の宝塔の形骸がそれであるといわれている。
村人は、今はほとんど知られていないが、以前は「塔石に触れると病気になる」と信じられていた。

その大宝寺に名取将監の墓があります。

「名取将監の墓」




名取将監は信虎の家臣として直接進言できるほどの地位に上りますが、
信虎の傲慢な振るまいに苦言を呈したことにより、武田家を去ることになります。

その後、芦安地区に住んだと伝えられます。信玄の生まれる少し前、信虎は領内を統一し、
その後、戦国大名として大きく前進します。このころから信虎は慢心して、傲慢な振る舞いが多く、
家臣のひんしゅくをかうようになったと言われます。地元に伝わる話では、将監もまたこれをみるにつけ、
心を込めて苦言を呈しましたが、信虎の機嫌を損じ、ついに武田家を去ることになったのです。

その後血のつながりもあり、近郷にも名の聞こえていた郷士、
名取弾正左衛門を頼って今の芦安地区大曽利に居を定めてこの村の住人になりました。
名取将監は、文献などにあまり出てこない謎の多い人物です。
しかし、芦安地区の誇りとして、祭りや信仰、諸行事は名取将監と結びつけて語り継がれてきました。
芦安地区の大曽利には殿屋敷という地名があります。ここは名取将監の屋敷跡といわれています。
(南アルプス市教育委員会資料より)

「お城の健ちゃん」みのぶ道をゆく_2へ続く