了 源 寺

 江戸時代、徳川幕府は船橋に大砲試射場を設けた。享保年間(1716〜1720)にはこの了源寺に大砲試射の小屋が建てられ、谷津、藤崎方面に向かって大砲射撃を行った。射撃場を廃止した後、砲台の台座のあった場所に鐘楼堂が建てられ、幕府から 『時の鐘』 として公許された。その後、明治4年に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていた。
 その 『時』 の基準と言われるのが当寺に保管されている「和時計」である。この「和時計」は真鍮製で、江戸時代中期に作られたものと推定されている。 『蜀山人太田南畝(1749〜1823)』は江戸時代を代表する狂歌・酒楽本・滑稽本の作者で、船橋宿で時の鐘の音を聞いて詠んだ狂歌入りの掛け軸が、当寺に残されている。

《 煩悩の眼をさます時のかね きくやわたりに船橋の寺 》

お経を聴く亀

 むかし、了源寺に、宝海様という和尚様がいました。宝海様は、江戸幕府の中枢にいる松平信公の信任も厚く、徳の高い偉い和尚さんでした。宝海様は、老齢になり、了源寺に隠居しました。そして、朝夕本堂にでてお経を上げて暮らしていました。宝海様が了源寺に来て間もなくのことでした。宝海様の読経が始まると、本堂の縁側の下に、きまって大きな亀が現れ、ずーっとそこに止まってお経を聴いていました。亀は得心がいったように、時々頭を上下に振っていました。これを見たこの寺の信者たちは 「亀さんもお経を聴きに来ていますだ。不思議なこともあるものだ。賢い亀さんもいるものじゃのー」と言いながら、この亀に大層親しみを持って見守っていました。
 それから何年か経ちました。宝海様がこの世から去りました。ところが、それまで毎日朝と夕方にきまって現れていた亀が、ぱったりと姿を見せなくなりました。これに気付いた信者達は、大層不憫に思いました。それから口々に「亀さんは、和尚さんが亡くなったことが分かったんだのー。可愛そうにのー」と言って、亀を偲び合いました。
 また、この噂を聞いて感激した石工の名人才次郎は、早速この亀の石像を彫ってお寺に奉納しました。今も了源寺の境内に祀っている亀石だと言うことです。また、この亀に祈ると延寿の霊験がそれはあらたかだと言うことです。(船橋の民話 村上昭三氏著)
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